恋人は本当に「必需品」なのか|恋愛しないとダメなの?

世の中の流行りの歌や、文学や映画は、くり返しこちらに呼びかけてくる。
恋をしろ、と。誰かを特別に思え、と。

ひとりでいる時間は仮の姿で、本番は誰かと結ばれてから始まる――そんな空気が、季節のように何度もやってくる。

もちろん、その呼びかけには嘘がない。
恋愛には、たしかに人を明るくする力がある。

一緒にごはんを食べる。
気持ちを分け合う。
しんどい日に、帰る先の灯りになる。

そういう時間は、たしかに人生を豊かにする。そこは否定しようがない。

ただ、ここで言いにくいことがある。
恋人がいることは、幸せの可能性であると同時に、しんどさの入口にもなりうる、ということだ。

しかも厄介なのは、そのしんどさが、あまり表立って語られないことだと思う。
「恋愛はいいもの」という前提が強いぶん、疲れた側はつい、自分の愛情不足みたいに感じてしまう。

でも、本当にそうだろうか。

恋人はたしかにうれしい。でも「維持費」もある

恋人がいたら便利だし、幸せになることもある。
この感覚自体は、とても自然だ。

誰かと予定を立てるだけで週末に輪郭ができるし、ちょっとしたことを共有できる相手がいるのは、やっぱり心強い。
体調を崩したときや、仕事で消耗したときに、ひとこと声をかけてもらえるだけで救われることもある。

ただ同時に、恋人には維持費がある。

ここでいう維持費は、お金だけではない。

  • 時間(会う、連絡する、予定を合わせる)
  • 気力(気を遣う、調整する、言葉を選ぶ)
  • 感情の負荷(不安、すれ違い、機嫌の波)
  • 行動の制約(予定、交友、使える時間の減少)

これらは、レシートみたいに見える形では出てこない。
だからこそ気づきにくい。

気づいたときには、生活のあちこちに組み込まれている。
会う頻度、返信のタイミング、どこまで共有するか、何を言うか言わないか。

親密さって、幸せである前に、わりと地味に「運用」でもあるんだなと思う瞬間がある。

ここを言うと、すぐに「冷たい」「損得で見てる」と受け取られがちだけど、たぶん逆だ。
大事だからこそ、きれいごとだけでは回らない部分がある。

恋愛のしんどさは、恋愛そのものより「空気」の問題かもしれない

もう一つ、しんどさを大きくしているものがある。
それは恋人そのものというより、恋愛をめぐる社会の空気かもしれない。

恋人がいないこと自体は、法的には何も問題ない。
誰にも責められる筋合いはない。

でも、文化のレベルでは、わりとずっと小さく問われ続ける。

「まだなの?」
「いい人いないの?」
「いつまで独り身なの?」

ここまで露骨でなくても、似たような空気はある。
しかも多くの場合、それは悪意より“善意”の顔をしてやってくる。

心配してくれている。
応援してくれている。
励ましてくれている。

だからこそ、反論しづらい。

でも言われる側からすると、しんどいときがある。
恋人がいないことそのものより、恋人がいないことに説明が必要になる感じが、息苦しい。

この息苦しさは、命令口調よりむしろ強い。
露骨な「恋愛しろ」より、やさしい「そのうちね」「誰かいるといいね」のほうが、深く生活に入り込む。

気づくと人は、
「恋をしたいから恋をする」のか、
「説明を終わらせたいから恋をする」のか、
自分でもわからなくなってくる。

「カフェに行っただけ」で疲れるとき、何が起きているのか

たとえば、気の合う友人とカフェに行く。
趣味の話をする。近況を話す。仕事の愚痴をこぼす。
それ自体は、どこにでもある普通の時間だ。

でも、恋人がいると、そこに別の負荷が乗ることがある。

「誰と行ってたの?」
「どこで?」
「何時まで?」

この質問が悪い、と言いたいわけではない。
不安になることだってあるし、気になることもある。そこは自然だと思う。

ただ、こういうやりとりが積み重なると、行動そのものとは別に、もう一つの負荷が生まれる。
それが、説明するための疲れだ。

どこまで言うべきか。
詳しく言うと面倒が増える気もする。
ざっくり言うと不誠実に見える気もする。

この「言葉を選ぶ時間」が、地味に消耗する。

そして本当に怖いのは、その場の会話より、次の行動が変わっていくことだ。

  • 面倒だから誘いを断る
  • 誤解されたくないから会う人を絞る
  • 新しいつながりを先回りで避ける

そうやって少しずつ、人生の窓が閉じていく。

ここで起きているのは、愛情が足りないというより、
安心の作り方が「確認」に寄りすぎている状態なのかもしれない。

恋愛がしんどいのは、あなたが冷たいからではない

ここまで読むと、「じゃあ恋愛なんてしないほうがいいのか」と見えるかもしれない。
でも、そういう話ではない。

私は、恋愛そのものを否定したいわけではない。
恋愛には、たしかに人を支える力がある。
孤独をやわらげる力も、生活を続ける力もある。

ただ、恋愛を必要以上に神聖化すると、しんどさが言えなくなる。
「恋愛は尊いものだから、疲れるのは自分が未熟だからだ」と、自分を責めやすくなる。

でも実際には、疲れの正体はもっと地味なところにあることが多い。

  • 期待が一人に集まりすぎている
  • 共有の範囲が曖昧で、毎回すれ違う
  • 不安の処理が、会話より確認に偏っている
  • 恋人以外の窓が減って、関係が重くなっている

こういうことは、愛情の量とは別の問題だ。
だから、しんどさを感じたときに最初から「自分が悪い」「相手が悪い」にしなくていい。

まずは、この関係は今、どういう運び方になっているんだろうと見る。
それだけで少し、息がしやすくなる。

いったん、恋愛を「地面に下ろして」考えてみる

恋愛は美しい。
でも、美しいだけでは続かない。

恋愛は幸福を増やすことがある。
でも、ときには幸福を「固定費」に変えてしまうこともある。

だから必要なのは、恋愛をロマンから引きずり下ろすことではなく、
ロマンを壊さないために、いったん地面に下ろして考えることなんだと思う。

「恋人がいるべきか、いないべきか」という道徳の二択ではなく、
いまの自分の生活の中で、恋愛をどんな位置に置くと無理がないのか。
何を共有して、何を外に持てると、関係が呼吸しやすいのか。

そういうふうに考えられると、恋愛は少しだけやさしくなる。

次回予告:恋愛を“設計”として考えてみる

ここまで書いてきたしんどさは、単なる気分の問題ではなく、かなり構造的なものでもある。
次の記事では、橘玲『幸福の「資本」論』を手がかりにしながら、恋愛を

  • 資本(支えやつながり)
  • 制度(暗黙のルールや圧力)
  • 物語(承認や「特別でありたい」気持ち)

という視点で整理して、
「恋愛をロマンの敵にしないための設計」を、もう少し具体的に考えてみたい。

恋愛を否定するためではなく、恋愛に飲み込まれないために。
そして、できればちゃんと大事にするために。

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