顕微鏡の細胞から始める思想史の冒険|ブレインダンプでつまずく人へ

ブログのネタが何かないかと、ずっとブレインダンプをしていました。
メモには、関心、感情、思い出、言葉の断片がどんどん溜まっていきます。

ところが不思議なことに、断片が増えれば増えるほど「これが自分の本体です」と言い切れなくなっていきました。

どれも自分の一部ではあります。
でも、どれか一つが“中心”になるわけでもない。
むしろ中心が遠のいていく感じがします。書けば書くほど、私は迷子になっていく。

そんな時、ふと中学校の理科実験を思い出しました。
唾液を採取して、顕微鏡で細胞を見る実験です。

プレパラートを覗いた瞬間、私は奇妙に動揺した記憶があります。
見えているのは「単なる細胞」なのか、それとも「自分の細胞」なのか。

自分由来なのに、顕微鏡の向こうでは“誰のものでもない細胞一般”のようにも見える。
その瞬間、自他の境界がぐらつきました。「プレパラートの上に置かれた自分」という想像ができてしまったのです。

この揺れって、たぶん「不安」だけじゃないんですよね。
ちょっとだけ、面白い。
自分が広がったようでもあり、消えそうでもある。どっちつかずの変な感覚です。

ここで私は、ひとつの仮説に触れます。
西洋ではディスカッションが日ごろからなされて「個」や「自己」を強く前提とする文化圏。

それに対して日本では「和」を重んじる空気が強く、自分という輪郭が言語化されにくい場面があるのではないか、と。
少なくとも私の場合、周囲との調和を優先する癖が強く、「自分は何者か」を言葉にしようとすると迷子になりやすい、

という実感があり、そこを起点にお話します。

ブレインダンプで迷子になったなら、一度自分を仮置きして、「偉人の言葉」を借りてみよう。

回り道に見えて、私には近道かもしれない。
思想史を追いながら、もう一度自分に照射してみよう、という冒険です。

  • 第1章:疑っても残る「私」の最小単位(ルネ・デカルト)
  • 第2章:世界そのものは掴めなくても「経験の枠」は語れる(イマヌエル・カント/純粋理性批判)
  • 第3章:「世界がどう現れるか」を観察する(エトムント・フッサール)
  • 第4章:自己は“中心”ではなく“つながりの束”(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ)
  • 第5章:「全部つながる」わけではない、という安全柵(マリリン・ストラザーン)
  • 第6章:日本語圏で「決めきれない自己」を引き受ける(寺山修司/谷川俊太郎)

第1章 懐疑主義/ルネ・デカルト──疑っても残る“自己の最小単位”

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ここでの目的

ここで確保したいのは「世界の真偽」ではなく、迷子になっても崩れない自己の最小単位です。

懐疑主義とは、簡単に言えば「本当にそうなの?」を徹底する態度です。
見えている世界が本物だという保証はあるのか。夢ではないのか。だれかに騙されている可能性はないのか。

ここでデカルトが出す答えが有名です。


外の世界(リンゴなど)が本当にあるかは疑えます。
でも「疑っている」という出来事は、疑っている最中には消せません。

Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・ズム) 我思う、ゆえに我あり

ルネ・デカルト

これは有名な言葉ですね。

最後の最後の最後の最後。。。

ほんとに疑い続ける中で最後に残るのは自分という存在だ。という論理展開。

  • 世界は疑える
  • けれど「疑っている私」は疑えない
  • だから「考えている私」は最低限確実だ

ブレインダンプで内容が散らばっても、「散らばっていることを見ている私」は残ります。

つまり、中心が見えなくても“観測者としての私”だけは落ちない。
それだけでも、迷子の底が抜けてしまうのを防ぐ足場になります。

ここで得たもの・不安なもの

この章で得たもの:外界が揺れても「疑っている私」は残る(最小の足場)。

残る不安:では、世界の確からしさはどこから来るのか。

第2章 イマヌエル・カント『純粋理性批判』──物自体には届かないが、経験の条件は語れる

ここでの目的

懐疑主義って、やりすぎるとキツいんですよ。
「全部疑える」ってことは、「全部不安定」ってことだから。
そこでカントは、ちょっと現実的な提案をします。

懐疑主義は世界を一度壊します。
すると「どうせ何も分からない」で終わりそうになります。ここでカントは、壊れた世界を“別の仕方”で支え直します。

「分からない」で止まらず、私たちが経験を持てる枠組み(条件)を足場として取り戻します。

カントの大枠はこうです。

  • 世界そのもの(物自体)がどうであるかは、直接には掴めない
  • でも私たちが世界を経験できるのは、一定の枠組み(時間・空間・因果など)が働くから
  • だから「世界そのもの」ではなく「世界が経験として成立する条件」を考えよう

ここで大事なのは、確からしさの意味です。
確からしさは「外側の世界をそのまま掴んだ証明」ではなく、同じ条件なら同じように経験が立ち上がるという安定性から生まれます。

たとえばスマホのカメラ越しに風景を見るとき、私たちは現実そのものを直接触っているわけではありません。レンズやセンサーや補正の条件を通った像を見ています。それでも条件が安定していれば、「そこに横断歩道がある」と判断できます。
地図も同じです。現地そのものではないのに、目的に必要な情報を安定して取り出せる形式だから役に立ちます。

その他にも、ゲームの世界が「本物か?」って議論より先に、
ゲームが成立するルール(当たり判定・視点・時間の流れ)があるから遊べる、みたいな話です。
ルールが安定してるから、世界は使えるんです。

プレパラートの唾液も同じ。
私が見たのは「細胞そのもの」ではなく、顕微鏡・授業・分類の言葉・見方のルールという条件のもとで「細胞として見える仕方」でした。
だからこそ私は「自分でもあるし、一般でもある」という揺れを感じたのだと思います。

ここで得たもの・不安なもの

この章で得たもの:世界の確からしさは、経験が安定して成立する条件から来る。

残る不安:その条件の上で、世界は実際にどう現れているのか。

第3章 現象学/エトムント・フッサール──「あるか」より「どう現れるか」を観察する

ここでの目的

世界の断言をやめて、世界が私に「どう現れているか」を手触りとして記述します。

ここで話が一段、面白い方向に曲がります。
フッサールは、こう言います。

「世界が本当にあるか」を決める前に、
「世界が私にどう見えて、どう意味を持っているか」を観察する。

リンゴは「存在する」と断言される前に、
赤く見え、重さを返し、匂いが立ち、「食べ物」として意味をまといます。
世界はいつも、ただそこにあるのではなく、意味をまとって現れます。

この視点を持つと、ブレインダンプの迷子がちょっと違って見えます。
断片が散らばっているのは、自身の内面が壊れているからではなく、
状況ごとに意味づけが変わるからかもしれない。

プレパラートの唾液も同じです。
同じ唾液でも、家なら「自分の一部」、授業なら「教材」、科学の言葉の中なら「細胞一般」として現れます。
同じものでも、状況によって現れ方(意味のまとい方)が変わる。

ここまで来ると、自己が一枚岩に固定しにくいのは自然に見えてきます。

ここで得たもの・不安なもの

この章で得たもの:世界は、状況の中で意味をまとって現れる。

残る不安:自己が固定しないなら、自己は何として成り立つのか。

第4章 ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ──自己は“中心”ではなく“つながりの束”

ここでの目的

自己を「核」ではなく、記憶・身体・言葉・他者・モノとのつながりの束として捉え直します。

まず、具体例から始めます。

同じ人でも、場面によって「自分の感じ」は変わります。

  • 家では、家族の前での自分が立ち上がります。
  • 学校では、クラスの中の自分が立ち上がります。
  • ネットでは、匿名の自分や、別のキャラの自分が立ち上がります。
  • 趣味の場では、「語れる自分」が急に濃くなったりします。
  • 一人の夜には、不安が前面に出る自分が現れたりします。

ここで重要なのは、「本当の自分が変身している」という話ではありません。
むしろ、結びつく相手や状況が変わると、強く働く要素が変わるということです。
つまり「私」は、つねに固定の核から出てくるのではなく、状況ごとの組み合わせとして立ち上がっている。

4-1. 木(ツリー)モデルを疑う

私たちはよく、自己を「木」のように考えます。

  • 幹=本当の自分(本体)
  • 枝=趣味や性格
  • 葉=日々の言動

「中心があり、そこから派生する」というモデルです。
ブレインダンプで迷子になるのは、このモデルを前提にしてしまうからです。
「幹はどれ?」「本体はどれ?」と探してしまう。


4-2. リゾーム=中心がない増え方(ネットワーク的な広がり)

ドゥルーズ=ガタリは、別のモデルを提案します。それが「リゾーム」です。
リゾームは、しょうがや竹や芝の根のように、地下で横へ広がるものを想像すると分かりやすいです。

  • 中心がない
  • どこからでも増える
  • 途中で切れても別の場所で増える
  • 一本道ではなく、複数の道が同時に伸びる

これを自己に当てはめるとこうなります。

「本体」から枝が伸びるのではなく、
いろいろな要素が互いに結びついて、その時々の私ができる。

つまり「本当の自分=一本の幹」を探すより、
「いまの自分を作っている結びつき(関係)」を見た方が説明力が高い、という話です。

4-3. 「つながりの束」とは何か(難語を避けて言い直します)

ここでいう「つながりの束」は、言い換えるとこうです。

  • 自分を作っている材料(要素)
    例:記憶、身体、言葉、他者、場所、持ち物、音楽、SNS、学校の役割、家族での役割、習慣など
  • それらがどの場面で強く結びついているか
    例:学校では「評価」「友人関係」「言葉遣い」が強く働く/家では「家族の歴史」「安心」が強く働く、など

この「要素」と「結びつき方」のセットが、その時点の私を作ります。
だから、ブレインダンプがやっていることも変わって見えます。

ブレインダンプは「本体を掘り当てる作業」ではなく、
自分を作っている要素を増やして見える化し、どんな結びつきがあるかを発見する作業になります。

書けば書くほど中心が見えないのは、失敗のサインというより、
「本体一本で説明するモデル」が壊れて、「組み合わせで説明するモデル」が見えてきたサインかもしれません。

4-4. じゃあ、なぜ「自我が溶ける」感じが出るのか

ここがプレパラートの原体験につながります。

自分の唾液は、まぎれもなく自分由来です。
でも顕微鏡の向こうでそれは「細胞一般」に見える。
自分のものが、一般のものに接続されてしまう。

リゾーム的に考えると、これは異常というより起こりやすい現象です。
自己はもともと、いろいろな要素が接続して成立する。
接続が増えれば、「自分だったはずのもの」が別の領域(科学、一般性、分類)に繋がってしまう。
そのとき、境界が薄くなる感じが出ます。

だから問題は、揺れをゼロにすることではありません。
揺れが出るのは自然だとしたうえで、溶けきらない形をどう保つかが次の課題になります。
ここで第5章が効いてきます。

ここで得たもの・不安なもの

この章で得たもの:自己は中心ではなく、要素と関係の組み合わせとして成立する。

残る不安:つながりが増えるほど「溶けて消える」感じをどう止めるか。

第5章 マリリン・ストラザーン──「全部つながらない」という安全柵

ここでの目的

「溶けて消えそうな不安」を止めるために、全部ではなく部分でつながるという手すりを借ります。

ネットワーク的な自己観には、良さと同時に怖さもあります。
「全部がつながって、境界が溶けてしまうのでは」という怖さです。

ここでストラザーンの「部分的つながり」が効きます。

  • つながりはいつも全部ではない
  • 必要な部分だけがつながる
  • それ以外の部分は切れている
  • だから完全に溶けて消えない

友達と仲が良くても、人生の全部は共有しません。
家族にも言えないことがあり、ネットでは別の顔があり、趣味仲間には趣味の部分だけ見せる。
この「部分だけ」が、私たちを壊れにくくしています。

ストラザーンの「部分的つながり」は、これをちゃんと肯定する考え方です。
全部がつながらなくていい。必要なところだけつながればいい。
だから、自己は溶けきらない。

唾液が「自分でもあり、一般でもある」と感じられたのは、全部が混ざったからじゃなく、
「自分の一部」が「科学の一般性」と部分的につながったから、なんですよね。
揺れる。でも、消えない。そこに安全柵が立ちます。

この章で得たもの:つながりは部分でよく、だから自己は完全には溶けない。

残る不安:この揺れは、日本語圏ではどう表現され、引き受けられてきたのか。

第6章 日本近代文学への着陸──寺山修司と谷川俊太郎

ここでの目的

西洋で繰り広げられる思想史の抽象を、日本語の自己の揺れとして着陸させ、私の実感に戻します。

ここまでの話は筋が通っていても、抽象のまま終わる危険があります。
そこで私は、日本語圏の表現の中に、この「決めきれなさ」「揺れ」がどう現れるかを見ます。

上記の動画は劇作家寺山修司と詩人谷川俊太郎のビデオレターです。

このやり取りの中で、いままでの議論を彷彿とさせるものがあります。

39:32~ 谷川俊太郎→寺山修司へのビデオレター。
谷川俊太郎の所有するものや構成要素を画面に投げ入れ「これは僕の○○である」と続ける。
最後には「これは私の詩ですか?」と問うて終わります。

46:40~ (YOUTUBE動画はここからスタートするように設定しています)
そして応答として寺山修司→谷川俊太郎のビデオレター。

寺山が「たぶん、ぼくは○○である。」と自分の要素を一つ一つ挙げていき、

最後に「どれが一番正しいのが決めかねているのが、ぼく自身というわけか」と締めくくります。

日本を代表する劇作家、詩人の二人を以てしても、ブレインダンプのような行為の果てに

自身への疑問符が投げかけられたままビデオは終わりとなる。

この締めは、私に弱さというより、私は正確さに見えます。
大きな言い方をするとこのビデオレターで「谷川俊太郎・寺山修司に救われた」とさえ思いました。


自己は増えていく。状況で重みが変わる。だから一枚の設計図に固定できない。
「決めきれない」は、負けではなく、むしろ誠実です。

自己は要素の集まりとして増えていく。
状況が変われば重みも変わる。
だから一枚の設計図に固定できない。
「決めきれない」は、むしろ正確さに近いのかもしれません。

そのうえで、彼らは生き生きとした言葉を紡ぎ出している。

つまり決めきれなさを抱えたまま、それでも言葉を選ぶ。
自己を結論として固めるより、自己を更新として生きる。
迷子を終わらせるんじゃなく、迷子のまま歩ける足場を作る。そういう方向です。

この章で得たもの:「決めきれない自己」を欠陥ではなく誠実さとして見られる。

残る不安:決めきれないまま、日々どう自己理解を更新していくか。

まとめ──本体探しではなく、更新の設計へ

ブレインダンプで集まる断片は、どれも私の一部です。
しかし、それらが積み上がっても「本体」には確定しない。以前の私は、これを欠陥のように感じていました。

でも思想史を一周してみると、見え方が変わります。

  • デカルト:迷子でも残る「考えている私」がある
  • カント:世界そのものに届かなくても、経験の条件が確からしさを支える
  • フッサール:世界は意味をまとって現れ、状況で変わる
  • ドゥルーズ=ガタリ:自己は中心ではなく、要素と関係の組み合わせとして成立する
  • ストラザーン:つながりは部分でよく、だから溶けきらない
  • 寺山/谷川:決めきれなさを引き受け、更新として生きる道がある

そして最後に、最初のプレパラートへ戻ります。
いまなら、顕微鏡の中の細胞が「自分でもあり、一般でもある」と感じた理由が分かります。境界は最初から固定ではなく、状況ごとに成立していたのだと思います。

ここまで来ると、ブレインダンプは「本体を掘り当てる作業」ではなく、
自己を作る要素と結びつきを見える化して、更新の仕方を選び直す作業に見えてきます。
迷子になる感覚は、失敗のサインというより、地図が細かくなってきたサインかもしれません。

最後に、

第六章を終えても「決めきれないまま、日々どう自己理解を更新していくか」は残っていましたね。

決めきれないままでも、時間は刻々と過ぎていきます。
だから私は「自分探しの旅」という意味での、自身の揺らぎはもうやめていきたいと思います。
(ブレインダンプを放棄するという意味ではありません)

日々は淡々と過ぎていきます。

だからこそ自分も淡々と今日の自分を短く記録し、明日の自分に必要な接続だけを選び直す方へ進みます。
それが私にとっての、更新のしかたです。

継続して日々を記録すること・行動すること。こそが私をかたち作る道なのではないでしょうか?

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